伝えるもの伝えられるもの

まーたお久しぶりですね


毎回この書き出しでやってる気がする


今回は言語について書くわけですけどぶっちゃけめんどくさかった…

なので手が付きませんでした。

はい。


最近は人生が嫌いになってます。

何やっても結果が出ない。

というか結果ができない程度のことしかできない自分が嫌い。

なんだかんだまだ他人の評価が価値基準にある自分が嫌い。

結果だよ結果。

僕はそういう宗教に入門したんだ。

壺でも買おう。


なんとか直そうとは意識してるんですけど

目の醒めるような体験なしに

価値観というか性格というかを

矯正するのはなかなかしんどい。


プラス周囲との差的なものを感じる。


おっ意識高い系みたいな言語になった。

良いぞこの調子だ。


まあ自分が高いとか低いとかじゃなくて、

優劣とか考えなくても、自分と同じ物の見方をする人間はいないんだなあ

という寂しさ的なあれを感じます。


特に天井の高さがね。

人間天井低くねえか?

そんなんだから

背が低いんだよばーかばーか。


僕以上に天井も実力も背も高い人間を

募集しています。


「何者」って感じですねえ。

瑞月さんが好きです。


最近いよいよ周囲の人間が何者かになろうとしてる所を良く見るので

心持ちがよくもにょってします。

そうじゃねぇと思うんだよなあ。

けれど僕はチキンなので

それを口に出して言えないわけです。

ああ懐かしのchicken the corn。


自分の理想を意識するとか

この前言ったものの全然実行できない。

そろそろ本格的に自分は正常な人間なのか

疑いたくなってくる。

まぁ「正常」なんてものを想定してる時点で

正常ではないのでしょう。

正常てなんやねん。


こんな感じで色々気分があれなところで

真夜中乙女戦争を二週目してしまったので

なんかもう、あれだよね。

私の気持ちは分かるし

黒服にはなりたいし

先輩には恋をしたい。

俺も東京タワー燃やすかなぁ。


Fさんの主張というか

言ってることは死ぬほど分かる。

真夜中乙女戦争で滲み出る主張も、

本人がSNSに上げる主張も。


インスタのストーリーで言っている、

「死への抵抗、自身の生の定義、それによる美学と哲学の構築、その実践とが一人の人間を本当に美しくするんじゃないのと思う。この問題について考えることを避け続けた内面はどんなに綺麗な顔でも見た目でもすっからかんなのはごまかせない。」

なんて最たるもの。

目が腐るくらいに分かる。


でも彼は嫌い。

なぜかは知らん。

同族嫌悪なんだろうか。


真夜中乙女戦争も彼の主張も、

彼から切り離されたものは好きだけど。

彼自身は嫌い。

不思議な感覚。

もしかして:恋。


何はともあれ

あまり面白くない8月を

送ってしまったのは事実。

着払いだったらキレるレベルの面白くなさ。

くだらねぇ。


後日総括もしようと思います。

圧倒的に自分より上の人間が

近くにいると頑張れるけど

そうでないと頑張れないのは

僕の悪い癖ですね。


猛省。



まあ9月はここ1か月僕の胃を支配している

吐き気と一緒に頑張ろうと思います。


助けてくれる方がいれば助けてください。





さて本題。

今回は言語、というよりも

伝えるものと伝えられるものについて。


いわゆるシニフィエとシニフィアンですね。


どっちがどっちか

自分でも分からなくなるので再確認。


(Wikiさんより)


まあ要するに

何かしらの実体or事象とその観測者がいたときに


実体or事象自体がレフェラン

それを意味する言語や音声がシニフィアン

それに対する観測者の認識がシニフィエ


ってことでしょう。

間違ってたらごめんなさい。

首をつります。

もしくは豆腐の角に頭をぶつけます。もにゅ。


多分図解するとこんな感じ。

わっかりやすーい!!!



これ絡みで考えたいのは

①シニフィアンの不確実性

②シニフィエシニフィアンを一般化して芸術を理解する

の二つです。



まず一つ目。

シニフィエとシニフィアンの不確実性。


そもそも僕らはシニフィエとシニフィアンを学習する。

レファランを認知してシニフィエを。

そしてそれに対応するシニフィアンを言語として他者から学習する。

まあ大抵このパターンでしょう。

逆の例もないではないけれど。


そうすると人によって同じシニフィアンに対するシニフィエがずれ始める。

逆に同じシニフィエを少し違うシニフィアンで表現しだすパターンもある。


後者は方言とかの例に見られる。



僕が扱いたいのは前者。


シニフィアンに対するシニフィエを決定するのは「体験」以外の何者でもない。

もちろん辞書とか教育を通してある程度共通認識的なものは育まれますが

例えばお化け屋敷が怖い人にとってのお化け屋敷と

お化け屋敷が楽しい人にとってのお化け屋敷は

レフェラン自体は同じですが、

概念・イメージとしてのシニフィエは異なる。


これはお化け屋敷を楽しいと思う体験をしたか

お化け屋敷を怖いと思う体験をしたかによって異なりますよね。


こういうこと。

つまりそれぞれの持つバックグラウンドによって

言語の持つイメージがずれてしまう。

ポジティブなイメージ、マイナスなイメージといったずれだけでなく

範囲の異なりや大きさ、程度、定義の違い。

などなど。


まあそもそもシニフィアンの定義が曖昧ってのはありますよね。

切ない・寂しい・悲しい

この三つを明確に区別できますか?

他人に分かるように説明できますか?

まあそういうことです。

全てが曖昧

I MY ME MY


そのずれっていうのは日常的に会話する際には

あんまり大きな影響を持ちませんが

厳密な話をしようとすると大きな混乱を及ぼしがちです。


厳密な話として挙げられるのは

ディスカッションや詩や文学などの芸術ですね。


例えば

資本主義に対して良いイメージを持つ人間と悪いイメージを持つ人間が

ディスカッションしていたら

よほど注意深い人間同士でなければ会話が破綻しそう。


猫に対してポジティブなイメージを持つ人間が作った猫の詩は

猫に対してネガティブなイメージを持つ人間には響かない。


こんなところ。


米津玄師のLemonの歌詞

「胸に残り離れない苦いレモンの匂い」

で現実味を持てるかどうかはその個々人の体験次第ってわけですね。


もちろん多くの人が体験しやすいこと、しにくいこと

といった偏りは絶対あると思いますので

伝わりやすいシニフィエ、伝わりにくいシニフィアンは存在するでしょう。



僕個人としては話し合いの中で

こういう違いを見つけてその根本となる体験を掘り起こして

違いが生まれた要因を探すのが好きです。楽しい。


まあこれを楽しまないにしても

これらのことを念頭に入れてゼロベースで

会話を積み重ねた方が良い対話が生まれる。


でも残念ながらこれを認識せずに会話する人間の方が圧倒的多数なんですよね。

悲しい。

道徳で他人のことを思いやれとか言ってる暇あれば

他者を他者のまま受け入れる練習をさせた方が圧倒的に優しい社会になるでしょ。


日本は思いやり社会とかいうけど

他人に期待する人間が多すぎてそうならざるを得なかっただけじゃねえか?



おっと話がそれた。

まあ要するに自分と他人が違うように、

その個人が発する言語も違う可能性があるよってこと。


でもそれはそれでコミュニケーションの楽しいところなのでは。




続いて

②シニフィエシニフィアンを一般化して芸術を理解する


芸術ってなんなんでしょう。


割とそれについて考えていたんですが、最終的には

「人の五感が感じ取れるもの+言語っていうパーツを組み合わせて自分の中にあるイメージを作り上げて鑑賞者に作用を及ぼすもの」

ってとこで今のところは落ち着いています。


こう考えると言語ってのは偉大な発明だなあと思う。


まあ要するにシニフィアンを駆使してシニフィエを伝達するものは全てアートなのかなと。


とはいってもまだまだ芸術に関する知識は不足しているので

もっと色々知って色々考えなきゃなとは思います。


ちなみにここでいうシニフィアンとは

言語だけでなく、音や色、形、リズム、匂い、触覚、味

といった主体にとってイメージがついて回るものを総称しています。


さて芸術にも色々な種類があります。

僕に身近なところでいくと

絵、詩、歌、小説、映画、演劇

こんなところですかね。


仮にここでシニフィアンの個数というものを仮定して、

それが1作品中で使われる数を「情報量」

とします。


そうすると、ジャンルによって情報量がまちまちなんですよね。


例えば映画なんて二時間ある一方で

「古池や…」なんてめちゃめちゃ短い。

でもそれぞれにメリットデメリットはある。


そろそろ長くなって書くのも飽きてきたんで、

情報量が少ない作品と多い作品のデメリットメリットだけ書いて

締めるとします。


情報量が少ない作品に関して。

メリットは情報量を極限まで極限まで減らすことで

共感に必要なバックグラウンドも減ります。


最低限の情報だけ盛り込むことで、

あとは受け手が自由に解釈できる余白が多く生まれる。

それにより共感の種類が僅かに異なるとしても

多くの人に共感されやすい。


逆にデメリットとしては

情報を減らすが故に一つの情報への依存度が上昇する。

例えば小説、映画では気に食わない描写があっても重要な場面でなければ

まあさほど影響を受けませんが、

詩で気に食わない言葉があった時点でドンですよね。


最低限必要なバックグラウンドがなければ

何も伝わらないというのがデメリットと言えるでしょう。




続いて情報量が多い作品に関して。

これは少ない作品のデメリットがそのままメリットになりますね。

一つの情報への依存度が低い分対象範囲が広い。


それから特に小説や映画で顕著ですが、

情報量を増やしそれを相互的に関係させることで

作者の持つシニフィエと、読者が内容を進める内に持つシニフィエを一致させやすい。

それこそ映画の中である体験とシニフィアンを結びつけてしまえば一発。


例えば、

主人公が病気の友人と、その友人が亡くなる前最後に一緒に食べたものがりんご

みたいな状況であれば

そのあと「りんご」は悲しい思い出、あるいは死の象徴として語られる。


こういう風に情報量の高い作品を用いて、

鑑賞者に疑似体験をさせることで

作者の持つ一つのシニフィエに対するシニフィアンを

鑑賞者に植え付けられる。

これもメリットと言えるでしょう。


それから情報量の多い作品のポイントは

共感を生む情報が一意に定まらないことが挙げられるでしょう。

同じ作品のファンをとっても

共感する部分が異なるというのは大きな特徴でしょう。



逆にデメリットとしては

制作段階のものが大きいんじゃないですかね。

それだけの情報を全て統合するわけですから

当然製作者の腕が未熟であれば統合しきれなくてボロが出る。

そのボロの程度によっては共感を大きく下げてしまうことに繋がる。

こんなところでしょうか。



もちろんまだまだ不完全な理論なので

しっかり補強しなきゃなあとは思うんですが、

問題はどうアウトプットに落とし込むか。


SNSが流行り「共感の時代」と呼ばれる以上

ここの認識は大事になることでしょう。

SNSが流行る原理まで巻き込んで理論化して

それを行動に移せるようにしたいね。




それでは飽きたのでここらへんで。

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にほんごれんしゅうちょう

188㎝が日本語を練習する場所。