読みづらいだろうけど、このブログは読む用ではないので仕方ない。
現時点での人生観。
僕は死ぬのが怖い。いや、正確に言えば「死」の先にある「無」が怖い。肉体的な死が怖くないと言えばそれは嘘だ。しかしそれ以上に「自分」という概念がこの世界から消えてしまうことが怖い。それゆえ僕のキャリアビジョン、すなわち生きる目的はこの世界に可能な限り大きな影響を残すことである。それも社会全体の幸福度を上げるという形で。これは「無」をできる限り自分から遠ざけるための格闘である。そういう意味で、この目的を達成できないのであれば今死んでも50年後に死んでも大した違いはないとも思う。
この目的の達成度の判断基準となるのは、僕の影響で世界がどれだけ変わったかだと思う。もちろんこれは具体的な数値がでる基準ではない。最終的には自分が自分の与えた影響に満足がいくかどうかが基準になるのだろうと思う。そう考えると自分が満足のいくレベルで世界を変えるために自分が、一番効率が良くかつ美しいと思う行為が、自分が進むべき道なのだろう。
現在の僕にとってその行為は「教育」である。「教育」といっても学生相手に一方的に押し付けるという意味合いでの教育ではなく、年齢など関係なく生身の人間が相互的に変化し続けるという意味合いでの「教育」を行いたい。1年半続けている塾のチューターのバイトを通してたくさんの人生に触れ、彼らに多大なる影響を与えられた。また、その一方でその中のほんの一部の人生にはわずかながら良い影響を与えられたと自分でも思う。良い影響を与えられたと実感できた瞬間は、達成感のような論理的な幸福だけでなく、美しいものに心を動かされた時のような感情的な幸福をも感じることができた。その体験をしたことで、なんとなく頭にあった「世界を変えるのは最終的には人である」という論理が実感を伴って自分の中に浸透した。この時から現在まで僕は、僕の進むべき道は「教育」なのだと信じている。
とはいえ教育への携わり方は無限にある。大まかには教育のシステムを作るという方法と実際に生徒と直接向き合う方法の二つに分けられると思う。僕はその中で、常にシステムを作りつつ生徒と直接向き合うということを両立し続けたい。ただ、システムを作ることを考えれば、自分の理想の教育の方向性を定義する必要がある。僕が理想の教育の定義を考える上で一番影響を受けたのは、教育社会学の教授の、自由と平等は相反する概念であるという一言である。同じリソースで自由を重視すれば平等が損なわれ、平等を重視すれば自由が損なわれる。自由と平等は直行する座標軸であり、社会はその座標系内を、原点を中心として社会が持つリソースの絶対量を半径とする円軌道上でしか動けない。しかし影響を残すという僕の目的を達成するには、全体の幸福度を上げる必要があり、さらにそのためには自由と平等をより高い次元で両立する必要がある。これを達成するためには社会が持つリソースを増やす必要があるがそもそもリソースとはマンパワーとそれを支える道具、すなわちテクノロジーの力である。減り続ける日本の人口を考えればマンパワーを増やすという選択肢は取れないが、現在の科学技術の発展を考えればテクノロジーの力を上げるという選択肢は取れる。理系的思考を、大学受験を通して伸ばした僕だからこそテクノロジーを用いて作れるものがあるのではないかと思う。
つまりは、年齢など関係なく生身の人間が相互的に変化し続けるという意味合いでの「教育」に関して、テクノロジーを活用して自由と平等をより高い次元で両立したシステムを作りつつ自分もその中で「教育」を行い続ける。それを通して社会の幸福度を上げることで、社会に可能な限り大きな影響を残し、「死」の先にある「無」を遠ざける。これが僕のキャリアビジョンであり信念である。
にほんごれんしゅうちょう
188㎝が日本語を練習する場所。
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